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2022/02/02 15:37




峯村敏明著作集 IV

外国作家論・選

Toshiaki Minemura Collection

IV

松浦寿夫


 

出港と帰還

 

 

 半世紀にわたって美術批評家として旺盛な執筆活動を展開してきた峯村敏明氏の著作集がこのたび美学出版から刊行されることを、まず率直に喜びたいと思う。『彫刻の呼び声』(二〇〇五年)という著作がすでに水声社から刊行されていることから、この批評家の彫刻をめぐる思考の様態はある程度推察できるとはいえ――なお、ここで補足的に指摘しておくべき点は、その出発点から一貫して彫刻という概念の検討に多くの比重を置く批評家が例外的な存在であったことは強調しておくべきだろう――、今回の著作集の刊行によって、同時代の日本の美術の展開に批評的に随伴してきたこの批評家の思考の様態を全面的に再検討すると同時に、一九七〇年代以後の美術の諸動向を検証するうえでも、この著作集は貴重な機会を提供することになるだろう。

 ところで、全五巻からなるこの著作集の構図のなかで、本巻はもっぱら二〇世紀の西欧の作家たちを対象とした批評を集成する巻となっている(著者解題に詳細に論じられているように、本巻は数回にわたって集中的に論じられた作家がもっぱら構成対象となり、モネ、ボナールといった画家たちに関する論考は第一巻に再録されるようだ)。そして、何人かの作家について論じたこの巻を統制する原理は、美術家も批評家もいずれも、自らの生きる時代によって不可避的に条件付けられているという点にある。つまり、ある歴史的な条件によって、制作も思考も条件付けられているという点の承認は、美術家の制作と思考が無条件の全能的な主体の営みとしては思考しえず、また、全能な主体の限界なき自己表出の営みとは考えられないということだが、この自明ともいえる原理も、歴史主義的な決定論として個々の美術家の思考と制作を記述する型の言説を編成する原理として作用しかねない点も改めて指摘するまでもないだろう。むしろ、このような条件のもとで思考されえなかったこと、あるいはそれ以上に、思考されたもののなかに宿る思考されなかったものの痕跡こそが、峯村氏の批評活動を誘発し、展開させたとはいえないだろうか。

 思考されたもののなかに宿る思考されなかったものの痕跡、あるいは制作されたもののなかに宿る制作されなかったものの痕跡、それをホメロス的な意味でのダイモンという峯村氏の偏愛する概念で呼ぶこともできるが、それは観者にとって、何かを予告する謎の様相で出現する。そして、この謎に付き纏われ、この謎に導かれて、全体的な海図なしにたどり着くべき岸辺なき航海に出航する航海記録として出現したものが、この著作集に他ならない。それゆえ、本巻を手に取る読者は、著者に訪れたいわばいくつもの発見の軌跡を追体験するようにこの書物の頁を繰ることになるだろう。とはいえ、大洋はつねに平穏なわけではなく、突然の天候の異変の徴候に溢れているのだから、この航海者の進路にはたえず難破の危機に晒されていることも事実であり、実際、この著作のいたるところに危機の徴候とそれに対して選択された著者の方位感覚を類推することができるはずだ。

 それでは、謎は具体的にどのような様相のもとに出現するのだろうか。それは、例えば、マティスの「一九二〇年代の弛緩した室内画」として出現する。つまり、自らの偏愛する画家でありながら、この時期の一群の作品に対して、自分には弛緩した印象だけをもたらす作品としてしか見ることができないという仕方で、この謎は出現する。ところが、一九八一年のマティス展を訪れてもこの謎は解消できなかったが、同じ展示を二度目に訪れた際に、解消不能なまま長らく付き纏ったこの謎が晴れる瞬間が訪れる。それは、マティスの作品からではなく、この二回の訪問の間に、クロード・ヴィアラの作品を見たこと、またヴィアラの作品を分析する際に発見した「不飽和」という概念の到来とによってであった。つまり、「不飽和」こそが均衡点以上に画面を活性化することの発見によって、単に一九二〇年代のマティスばかりでなく、彼の制作のあらゆる局面の理解を更新する契機が到来したということだ。

 あるいは、また、ルーチョ・フォンターナの作品のいくつかに大きな魅力を覚えつつも、これら塑像という原理に立脚した彼の作品群と、フォンターナの名前と結びつく空間主義の理念、またこの理念の端緒として提示された「白の宣言」(一九四六年)で展開される思考との決定的な違和の様相のもとに、この謎は姿を現す。この謎の解明の途上で、峯村氏は一九四〇年から四六年にかけてのアルゼンチン滞在期間のフォンターナの活動の追跡のために、実際にブエノス・アイレスへと赴き、ブエノス・アイレスをはじめ、アルゼンチンの様々な地方美術館を訪れ、収蔵庫に保管されるフォンターナの作品群を見学することになる。また、様々な資料を駆使してこの差異の様態を明らかにし、さらに日本語の文献がほとんどないアルゼンチンにおけるマディという芸術家集団の活動に関する貴重な紹介も付け加えている。

 そして、本巻でもっとも重要な考察対象をなすジョルジョ・デ・キリコの一九二〇年以後の絵画もまた、途方もなく大きな謎として出現し、著者の思考をその解明に向けた航海へと誘うことになる。アンドレ・ブルトンによる批判以後、デ・キリコは一九一九年までのその「形而上学的絵画」が実現したそれこそ形而上学的な謎の演出に成功しえた事実を自ら否定しかねないような仕方で、一九二〇年以後の擬似古典主義への回帰を顕在化させながら、この画家が制作を続行したという理由で、いまなお、一九二〇年以後の絵画はほとんど侮蔑の対象しか構成しえないかのような状況が継続している。それゆえ、これらの一九二〇年代以後のデ・キリコの作品群は「形而上学的絵画」における巧みな謎の演出とは次元を異にするもうひとつの、さらに大きな謎の様相を呈している。それを単に老化、退廃、反動性の徴候として安易に回収するのではなく、むしろこの謎の解明なしには、それ以前の世評の高い作品群の理解それ自体をも砂上の楼閣として崩壊させかねないかもしれないという危惧は、誰もが好んで見ようとさえしない作品群に取り組む試みへと峯村氏を導くことになるだろう。そして、モダニズムの思考形式を条件付ける現在時への依拠と、その現在という時制の連続的な展開という時間概念の理解とは別のもうひとつの時間概念、つまり、「追憶と予感の裂け目に絶えず回帰する相対化された時間」、いわば円環的な反復性の徴を帯びた時間こそがデ・キリコの思考を作動させる点に著者は注目することになる。例えばティティアーノの作品の筆触の様態への注目から始まる絵画作品の歴史への遡行は、デ・キリコにとって、この筆触の物質的な組織化の多様な現われの探究として作用し、これら一九二〇年以後の作品群が構成する謎が、絵画面の内部に集積された事物の組み合わせによる謎ではなく、むしろ複数の異なった組織化の方法の並置によって産出されていることが明らかになる。

 あるいはまた、ミラノのブレラ国立絵画館でジョルジョ・モランディの風景画を前にして、著者はほとんど「失神」状態に至るほどの衝撃を受けるのだが――この表現は決して単なる誇張ではありえないだろう――、このきわめて日常的な事物や樹々という謎を欠いたように見える対象を描いた絵画、それにもかかわらず謎の不在こそが最大の謎として出現する絵画が、「堅固な存在感」と呼ばれるような一般的な解釈では捕捉できないことが、著者をモランディの絵画のもたらす謎、しかも「失神」状態を引き起こしかねない謎の解明に立ち向かうことを要請することになるだろう。いずれにせよ、日々繰り返される美術作品との遭遇のさなかに立ち現れてくるいくつもの謎、本書の美しい表現を借りれば、「折りおりの目覚めに際して〈出現する〉もの」としての謎にのみ導かれたいくつもの航海、この五巻からなる著作集のすべてをこの遭遇と学習の記録として読むことができるだろうし、また、この航海が時代も場所も異にした星座のもとに遂行されながら奇妙な航跡をとどめていることに読者は少なからぬ驚きとともに気付くことになるだろう。

 実際、改めて本巻の構成を一瞥してみれば、ここで取り上げられる作家たち、つまり、アンリ・マティス、フランク・ステラ、クロード・ヴィアラ、イヴ・クライン、クリスト、ヤニス・クネリス、アルベルト・ブッリ、ルーチョ・フォンターナ、ジョルジョ・デ・キリコ、ジョルジョ・モランディという一連の美術家たちの名前のリストを見れば、この組み合わせは奇妙な印象を喚起するかもしれない。というのも、例えばクレメント・グリンバーグ型のモダニズムの思考の体系のような観点を想定すれば、このような組み合わせ、しかもこれらの作家のいずれに対しても礼讃に近い高い評価が与えられている点に注目すれば、これらの個々の美的判断を一連の判断のアスペクトとして提示させることを可能にする基準は想像しがたいものの様相を呈するかもしれないからだ。とはいえ、ステラに関する文章を仔細に検討すれば明らかなように、作品の外形から演繹的に導き出されるストライプによって深さのイリュージョンを駆逐した点に注目するのではなく、むしろ、ストライプ相互の間に露出する地が形成するネガティヴ・スペースによって、新たな深さが形成される点に積極的な意味を見いだすことで、峯村氏はモダニズム理論が展開したイリュージョニズムの克服の過程としての進化という図式とは異なった視点からステラの試みに接近することに成功しているといえるだろう。

 また、ここでネガティヴ・スペースの生産性について補足しておくと、キュビスムの形成期に書かれた同時代のもっとも重要な批評のひとつである「絵画の現況について」(一九一二年)で、文芸批評家のジャック・リヴィエールの批判は、キュビスムの絵画において、対象となる事物間の隔たりにこれらの事物と同等の実体性が付与されることによって、諸対象とそれらの間の距離とが同質性のもとに織り込まれてしまい、画面が解読不可能な曖昧な空間と化してしまう点に向けられている。もちろん、この点で、キュビスムの絵画は浅く均等な奥行きを備えた一様な拡がり、つまりオール・オヴァな拡がりを先駆的に実現しえたとしても、ここではネガティヴ・スペースの作用力は封鎖されたともいえるだろう。そして、このネガティヴ・スペースの作用への注目が、ステラの作品とモランディの水彩画とを同時に礼讃する可能性の地平を形成していることは改めて指摘するまでもあるまい。

 そして、ステラの作品を支える生産的な矛盾として、本書では「深さと展開、絵画とドローイング、垂直視と並行視」といった一連の対立項が指摘されているが、近代絵画の推力として作動するこれらの対立項に、それ以上に重要な筆触の多数性/画面の単一性という対立項も付け加えておきたいと思う。さらにいえば、この多数性/単一性という対立項は、若干単純化して部分的多数性/全体的単一性と書き換えてみることもできるだろうし、この対立性こそが近代絵画の産出機構として作用するばかりでなく、この克服の困難な試みが多数性を備えながら、その出現において全体的な一挙性を実現しうる作品を可能にしたともいえるだろう。あるいは、峯村氏がヴィアラ論で駆使する相対性/絶対性という対立項に関して言えば、一九四八年のニューヨークのピエール・マティス画廊で開催されたジャコメッティ展この展示を訪れたバーネット・ニューマンが「脱帽する」との讃辞を述べた展示のカタログのために書かれたサルトルのきわめて美しい「絶対の探究」というテクストを参照して、ジャコメッティが相対的な距離のもとにあるモデルから絶対の距離を備えた彫像、「その全体が一挙に存在する」彫像を制作することによって、「完全に同時に姿を現すので、諸部分を持たない」という仕方で「多様の統一」を実現させたという記述を想起することもできるだろう。

 たしかに、峯村氏が指摘するように、イヴ・クラインがその「絶対志向」によって単一性の原理への執着から浸透性ないし非物質性と共に構想される一種の天上的な絶対を志向したのに対して、ヴィアラはこのような志向を持たず徹底的な相対性に依拠した際限ない反復に従事しているが、だが、この決して終わりえない反復もまた、水平線に太陽が接する瞬間がそうであったように、永遠性の形姿でありえる点で、この終りのなさは絶対性に接しているのかもしれない。そして、円環的な時間構造の形姿の永遠回帰の問題群が、デ・キリコに逆らって言えば、決してメランコリーの徴候を帯びたものではありえないことも強調しておくべきだろうか。というのも、「折りおりの目覚めに際して〈出現する〉もの」は決して同一物ではありえないからだ。例えば、マティスの一九二〇年代の絵画が、ヴィアラの作品の参照を経て、まったく異なったものとして峯村氏の視線に出現したように。回帰してくるものは同一性を備えているのではなく、つねに差異化されているのであり、より正確に言えば、ニーチェがその効用を説く忘却の作用によって、目覚めのこの朝は真新しい強度に満ちた朝であると同時にいくつもの別の朝でもありえるのだから、当然のことながら出港後に再び帰還した航海者にとって、この港は以前の港と同一のものではありえず、またこの航海者も深い変貌を経験することで出港時の自分とは同じではありえないだろう。だとすれば、この港も航海者自身も同一の固有名という指標のもとにありながらも、本性的な多数性のもとに裂開しているとしかいいようがないはずだ。そのため、作品は制作者にとっても、観者にとっても、複数の時を積層化したものとして出現するだろう。そして、峯村氏の批評の最大の美徳がこの特殊な時制の様態への関心であることは、例えば、本著作集第一巻に収録されるモネ、およびボナールに関する考察で明瞭に示されることになるだろう。

(まつうら ひさお 画家・近代芸術の歴史/理論)